9月20日午前 史跡高井田山古墳見学

 台風14号の影響で残念ながら、午前中の「史跡 高井田横穴公園=高井田山横穴古墳=見学」は中止となりました。

午後 柏原市立歴史資料館館長講演

時間:PM 1時~2時

講師:歴史資料館館長 安村俊史氏

演題:大和川つけかえ 本当の理由は?

 各自昼食を済ませて、近鉄「河内国分」駅、JR「高井田」駅に集合し、柏原市立歴史資料館に向かい、午後1時より館長講演を受けました。

はじめに

 約6,000年前、大阪平野には海が広がっていました。その後、海水面の低下と淀川・大和川が運んでくる土砂によって肥沃な大阪平野を生み出してきたのですが、それは洪水の歴史でもありました。そして、宝永元年(1704)に大和川は現在のような流れに付け替えられました。

 大和川の付け替えについては間違った理解をされている方が多く、小学校でも間違った学習をしている学校が少なくありません。中甚兵衛を中心につけかえを求める運動が大きくなり、最後には幕府の考えも変わり、付け替え工事がされるようになった、という話しをよく聞きますが、これは大きなまちがいです。なぜ大和川が付け替えられたのか?その本当の理由に迫ってみたいと思います。

[配布レジュメより引用]


大和川がつけかえられた理由

 いくら工事をしても洪水がなくならないこと、つけかえを求める運動が続いていたことが、幕府がつけかえ工事をもういちど考えるきっかけになったことはまちがいありません。しかし、つけかえ工事をすることになった大きな理由は、お金がかかると考えていたつけかえ工事で、お金が入ってくる方法を考え出したことにあります。

 新田開発によって入ってくるお金の分だけ幕府が工事費を出し、足らない分は各地の大名に出させることにしたのです。これで幕府は工事費を出さずにすむだけでなく、新しくできた新田からは年貢が入ってきます。つけかえ工事は幕府がもうかる工事だったのです。この方法を考え出したので、幕府は工事をすることにしたのです。

[1階展示コーナー掲示板より引用]


大名のつけかえ工事手伝い

 幕府は、つけかえ工事のほぼ半分を、各地をおさめていた大名に手伝うように命令しました。手伝いを命令されたのは、姫路、岸和田、三田、明石、柏原、高取など大和川とは関係のない地域の大名でした。

 それぞれの大名が担当した区間の工事費は、それぞれの大名が出すことになるので、大名にとってはたいへんです。

[1階展示コーナー掲示板より引用]



まとめ

大和川の付け替えは、幕府にとって好都合な事業だったといえるのではないでしょうか。そこに、町人や中甚兵衛らの思惑も見え隠れします。いつの世も、大規模な事業には利権がからんでいるのでしょう。付け替え工事が大阪にもたらしたものは大きかったと言えますが、一方で新大和川のために苦しむ人々がいたことも忘れてはならないと思います。農民運動が盛り上がり、最後に幕府を動かして大和川が付け替えられたという誤った考えは、訂正されなければなりません。

[配布レジュメより引用]

 大阪は小学校4年生が、大和川の付け替えについて、かなりの時間をとって学習するそうで、毎年100校くらいがこの資料館に見学に来るそうです。大和川の付け替えは幕府の都合で、おそらく付け替え後の利権についてまで計画されていた、などという話しを小学校4年生にわからせようとしても難しいですが、皆さんは大人の事情というものを理解いただけると思います、とこの講演を締めくくられました。

 

 館長様、有り難うございました。