物部ゆかりの地「河内・衣摺」について学ぶ

AM10:00~11:40

東大阪文化財を学ぶ会代表      南 光弘講師

南光弘講師は府民カレッジ東大阪校の入学式で講師代表として来賓祝辞を戴きました。

 

また、712日(火)には「土豪的武士団」水走氏と「商人的武士団」楠木氏という内容の講義を受け、今日で3回目です。

講演では、詳しく、細かく作られたスライドを使用して、物部氏と蘇我氏の由来や活動、勢力を広めた経緯を話された。

特に東大阪を拠点とした物部氏はその頃の日本の中心で日本の歴史を作っていたと地元愛たっぷりの講義であった。

そして、物部氏と蘇我氏の戦い「衣摺の戦い(丁未の変)」は今まで言われていた仏教をめぐる対立(宗教の争い)ではなく、流行した天然痘よる責任の押しつけ合い、天皇継承についての抗争、古大和川の下流勢力(物部氏)と上流勢力(蘇我氏)との権益をめぐる争いが原因であると説かれた。

 

この戦いの顛末は午後から行く街歩きの中の衣摺合戦場跡にある衣摺顕彰碑に歴史的に古い地名「衣摺」の由来と共に書かれている。

古代の物部氏を訪ねて=長瀬周辺街歩き=

PM13:10~15:10

東大阪文化財を学ぶ会代表     南 光弘講師

東大阪観光協会の皆さん

近鉄長瀬駅→波牟許曾神社→長瀬神社→衣摺顕彰碑→おつる地蔵・道標→石経法華塔(伝中将姫供養塔)→百間堤跡→弥刀神社→弥刀駅(長瀬駅)

街歩きの案内は午前中、熱心に地元愛を説かれた南光弘講師。

街歩きではより感情が入った熱弁とユーモアで語られた。

長瀬神社では由緒略記をいただき、日頃は入れない中庭の貴重な古い石灯籠も案内された。

弥刀神社では案内冊子もいただき、奥にある八坂神社や神殿も見せていただいた。

 

充実した東大阪の歴史を学ぶ場となった。

波牟許曾神社(ハムコソ)

波牟許曽神社は延喜式神名帳に記載されている創立の古い、由緒ある神社である。江戸時代は広い敷地をもった大社であり、明治末期には、430坪をもつ神社であった。明治41年、長瀬村内の八社の合祀が決まり、大正元年衣摺字南山の地に長瀬神社が創建され波牟許曽神社の旧地には波牟許曽神社の旧跡の碑が建てられたが、その旧跡の地に祭祀を続けなければならないという地元氏子たちの熱意によって、大正3年、同地に伊邪那伎大神(いざなぎおおみかみ)伊邪那美大神(いざなみおおみかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の祭神を迎え祭祀を続けることとなった。
 社殿は伊勢神宮、内宮にならい神明造り、鳥居には十六葉の菊の紋が入っている。伊勢神宮の式年遷宮祭の後、下賜されたもののようだ。

長瀬神社

祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊をはじめ、素戔嗚尊、保食神、管原道真、応神天皇、菊理姫などであるが、境内には多くの石造物が配置されている。
 石造物の中で特筆すべきは、東大阪市内では最古とおもわれる灯籠一基が本殿南側の庭にある「正保4年(1647)長覚寺牛頭天王石灯籠」と、「延宝8年申(1680)」銘の牛頭天王灯籠がある。また、珍しい雄の象徴が刻まれた寛政五歳癸丑(1793年)銘の阿形の狛犬(獅子)がある。

衣摺顕彰碑

衣摺にある『衣摺顕彰之碑』はあまり知られていない。
最初の戦場は石川と大和川と合流するあたりかと思われる。物部守屋は一族を集めて衣摺に稲城(いなぎ)を築き、守りを固めていた。主戦場は守屋の本拠があった衣摺で、守屋は榎の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけた。馬子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。馬子は軍を立て直して進軍させ、迹見首赤檮(とみのおびといちい)が大木に登っている守屋を射落として殺したことになっている。物部守屋最期の地「稲城」はいろいろな説があるが、ここ衣摺であることを顕彰しているのが「衣摺顕彰之碑」である。

おつる地蔵(辻地蔵)

衣摺3丁目の旧八尾街道西100m南の四辻に地蔵菩薩が祀られている。この地蔵菩薩は近くに住むおツルさんが親のおウメが亡くなった後も、その遺志を継いで供養を毎日続けていたことから「おつる地蔵」と呼ぶようになったそうだ。 地蔵堂の横にある道しるべは年号はないが古いもので、道の中に下の部分が埋もれているが、各面に「北すぐ玉津くり」「西すぐ天王寺」「東すぐ志起山」「南すぐひらの」と刻まれている。

大蓮の石経法華塔(伝中将姫供養塔)

あるはずの供養塔は無かった。敷地は更地になり住宅地として売られるみたい。

金岡公園横の金岡中学校すぐ西側大蓮東一丁目にある石経法華塔が当麻寺の曼荼羅で有名な中将姫の供養塔であることはあまり知られていないと言うよりなくなってしまった。

 

 

大蓮には昔、大きな蓮池があり、中将姫がここからとれるレンコンの蓮糸を近くの井戸で洗い五色に染めて何日もかけて立派な曼荼羅を織り上げたいう話がある。大和の当麻寺で仏門に帰依し美しい曼荼羅を蓮糸で織り上げた。大きな曼荼羅を織るためにはたくさんの蓮糸が必要であった。河内・大和をはじめ各地の池の蓮糸が献納されて織り上げたという。
この辺りに東西40m、南北26mの大きな蓮池があったことは事実のようで、大蓮の地名はこのことに由来しているようだ。 現在、当麻寺には古曼荼羅、文亀曼荼羅、貞享曼荼羅の3本の曼荼羅がある。

百間堤跡

金岡公園は、吉松新田と同じく宝永4年(1704)に大和川付け替え後開発された金岡新田(約18ha)の跡地に造られている。公園の西側に沿った道は古大和川左岸の堤跡で「百間堤」といわれていた。

彌刀神社(式内社)

彌刀神社創建の年は不詳だが、天平宝宇6年(762)の「続日本記」という歴史書に、旧大和川(現長瀬川)長瀬堤の決壊による激流で、社殿がことごとく流失したという記録がある。 平安時代の延長5年(927年)に完成された延喜式神名帳には、河内国若江郡二十二座の中に記載されている式内社で、官幣小社だった。社殿には、河口の神すなわち水戸の神、速秋津日子神と速秋津比売神を主祭神としてお祀りしている。摂社八坂神社には災害や厄除けの神、須佐之男命(牛頭天王)をお祀りしている。昔の神社用地は現在よりも広く、戦後まで西の鳥居から旧大和川右岸堤防跡までには、お旅地・馬場地・御供田といった神社関係の小宇名の地名が連続して残っている。
このことは御祭神水戸(みなと)の神とも符合し、水戸か彌刀となり、大水戸が近江堂となった現在の地名も伺える。